あらわす/あらわれる


                                                                                                                                                                                                                                                      出原 均


「表」と「現」。今日の慣行では前者に「あらわす」を、後者に「あらわれる」を当てることが多いけれど、本来は両方ともどちらに用いてもよいらしい。その、自動詞でも他動詞でもあり、表裏の関係にあることに意義があると思うのが絵画の存在ではないだろうか。「あらわす」が反転して「あらわれる」になる。つまり、表すことで、なにかが現れるのを待望するのが絵画であるといいたいのだ。現れるという語が魅力的なのはどこかで画家を超える(あるいは、画家との切断がある)からだが、その一方で、表すと表裏の関係だというのは、画家のたゆまぬ制作の結果以外なにものでもないからである。この表・現の不思議な関係がとても興味深い。

漠然と思っていたこの共犯関係をあらためて意識したのは、成山亜衣の絵画を考えていたときである。彼女の独特のイメージにふさわしい言葉を思い巡らすうちにそのような確信を抱いた。

絵画のイメージは、絵具の物質に宿り、行為によって形となる。制作の瞬間瞬間に賭け、それを重視する立場はもちろん、あらかじめイメージを綿密にシミュレーションしていたとしても、やはり、基本、絵画のイメージは画面にはじめて現れる。それを再現 (リプリゼント)・現前 (プレゼント) という絵画論の伝統とも結びつけるのも可能で、私は、やはり、現前であることに重きを置きたい。それが絵画の根幹であり、けっして絶えることのない魅力だろう。


成山のように、あるものを描写するのに十分な能力があり、しかも、描写することを意図しない描法、より自由な描法にも意識的である作り手の場合は、とりわけ現前という語がふさわしい。彼女が紡ぎだそうとするのは、多くの場合、特殊な状況や、ものの不思議な組み合わせなどによる物語性や喚起力のある世界であり、その世界を表すための適切なさまざまな描法を着実に自分のものにしてきた。彼女の絵画のイメージは、その世界と描法の手綱をとった――その手綱をとることに画家は努力しているし、一方で楽しんでいるように思われる――結果であって、二つを分けることなどできない。

昨年末、彼女の新作群に接したときに、上述した表・現のより複雑な関係を見たように思った。


私はそれらからなにか試されているような感じを受けた。こちらの見る力に応じる、作用、反作用のある絵画といえばよいか。もちろん、それは何が描かれているのか分かるか否かではなく(そういった面がないわけではないが)、見る側と丁々発止の関係をとる、見る側を誘い、問いかけるようなイメージだった。

このことで、私は彼女が見る側を意識しながら制作しているといいたいのではない。あくまでも彼女自身が突き詰めたことであるのは疑いない。彼女は描法やモチーフの選択と焦点化などにいままで以上に操作を加えており、それがどのような効果を見せるのかを冷静に測っているのだろう。絵の制作をとおして描く自分と見る自分とで慎重なコミュニケーションがなされているのだ。二つの立場の距離の取り方が絵画のイメージに浮上して、イメージそのものは弾力のある振幅を獲得したのだと考える。以前から徐々に進められていたらしいこのことが、その時点でとくに顕在化したように見えた。私はその振幅に応じる目を持つのか試されたような気がしたのだ。それと同時に、ステージをひとつあげたイメージが現れたのを実感した。

彼女が次にどのようにして、どこまで進んでいくのかとても気になる。これからも目が離せない画家である。



(ではらひとし・兵庫県立美術館)